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東京地方裁判所 平成9年(特わ)490号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

第一  本件公訴事実の要旨

被告人は、みだりに、平成八年一二月二四日ころ、大阪府豊中市の大阪国際空港内において、Aに対し、覚せい剤である塩酸フェニルメチルアミノプロパンの結晶七・六六八グラムを無償で譲り渡した。

第二  本件の争点及び判断の方法

被告人及び弁護人は、本件は、Aが被告人を陥れるために仕組んだ冤罪であり、被告人は無罪であると主張する。

本件において、被告人がAに覚せい剤を譲渡したことに関する直接証拠としては、Aの証言があるのみであり、本件公訴事実の立証は、ひとえにA証言が信用できるか否かにかかっている。

そこで、まず、本件の背景となる事実を中心に、検察官及び弁護人にほぼ争いのない思われる事実を認定した上、A証言及びこれを支える他の者の証言について検討を加えることとする。

第三  前提となる事実

以下の事実は、証拠上明らかであって、検察官及び弁護人に概ね争いがない。

1  Aは、平成元年ころ、Bと知り合い、同人の仕事を手伝うようになった。Aは、同年秋ころ、知人のCから、大相撲の宗家として横綱や立行司の資格を授与する資格を嗣いでいる熊本市在住のD司家(以下「司家」という。)の二五代目当主のDが放漫経営により多額の借金を抱えて困窮しているので、資金援助をしてやってほしいとの依頼を受けた。AがBに相談したところ、同人は、司家を財団法人化して相撲博物館に司家に伝わる宝物を展示するという構想に興味を示し、Aを担当者として、司家の負債整理に当たることとなった。これにより、Bは、Dに約五億円を融資して、司家の負債を整理していった。

2  他方、Aは、平成二年以降、Bの指示で同人が経営する株式会社○○の代表取締役になり、レストラン及びワイン販売店の管理運営を任されていたが、Bがいわゆるイトマン事件で勾留されていた間に、同人に無断で、そのレストランにあった横山大観作の絵画「霊峰富士」を処分した。このため、平成五年にBが保釈された後、同人の怒りにふれて、Aは、司家の負債整理等の業務を放置したまま、行方をくらました。

3  被告人は、平成五年一二月ころ、Cから紹介されてDと知り合い、暴力団員から債権の取立て等で追われていたDから、ボディーガードを頼まれて、これを引き受けた。

4  被告人は、同月末ころから、司家の負債整理に携わるようになり、平成六年一月からは、熊本市内の司家の境内地に同居するようになった。同年六月ころ、DがBに無断で三和銀行から融資を受けた件で、DがBに呼び出された際、被告人は初めてBに会い、同人と司家との関係を知るとともに、同人から司家の負債整理を任された。その後、被告人は、Bに雇われ、同人の資金援助の下に、司家の負債整理に当たった。

5  被告人は、平成八年六月ころ、D、Cらと同席の上、始めてAと会い、平成二年当時のAによる司家の負債整理の疑問点、すなわち、(1)Cに返済されたことになっている一億円の行方、(2)故Eに対する八〇〇〇万円の債務の件等について問い質した。

6  その後、被告人は、Bの指示により、Aの担当していた○○に関する業務も担当することとなり、同社の管理するロマネ・コンティ等の高級ワイン(以下「本件ワイン」という。)の在庫の件及びBの関連企業が所有しAが管理していたイギリスのロンドン・ケンジントンハウスのマンション(以下「本件マンション」という。)の件について、Aの仕事を引き継ぐこととなった。

7  被告人は、平成八年七月二〇ころ、A及びBの関連企業の取締役で在外経験の豊富なFと共に、本件ワインの在庫と本件マンションの現状を確認するため、ロンドンに赴いた。

8  Aは、事前に被告人らに対し、本件ワインはスイスに保管してあり、保管料を支払えば戻って来る、本件マンションは銀行の融資の担保となっているが、金利を払えば戻って来ると説明していたが、同月二一日ころ、被告人らが○○のイギリスにおける現地法人である○○UKの代表者であるロビン・バイヤー(以下「ロビン」という。)に会って確認したところ、本件ワインは既に処分されており、本件マンションも既に競売にかけられて処分されていることが判明した。その際、Aは、ロビンに対して、何ら反論をしなかった。

9  同日夜、被告人は、宿泊していたホテルの部屋でAを詰問した際、ワインのボトルにタオルを巻いた物で、Aの頭部を一回殴打した。

10  その後、被告人とFは、Aが本件ワイン及び本件マンションの処分に関与しているのではないかという疑いを抱いて、四回にわたり渡英したり、Aを追及するなどして、平成八年中にBに報告をすべく調査していた。

11  同年八月以降、Aは、被告人の指示で再び司家に関する事務を担当するようになり、Dは、同年九月以降、Aの主宰していたワインクラブを手伝うなどしていた。

12  同年一二月二三日、被告人は、大阪市内の喫茶店でAと会い、話をした後、Aと連れ立って玩具店の「キディランド」へ行ってぬいぐるみを買い、串カツ屋へ行って、食事をした。その後、被告人は、Aと別れたが、翌日大阪空港で待ち合わせることとした。この日の話合いで、Aが翌日大阪から空路熊本へ行くことになった。

13  Aは、同日中にDの妻D′に電話をかけ、明日熊本へ行くが、被告人の指示によりDに覚せい剤を飲ませた上、覚せい剤を置きに行こうとしているので、警察の知合いに連絡をした方がよいなどと話した。

14  同月二四日午前七時ころ、被告人は、Aと大阪空港で落ち合い、Aに一人で熊本へ行くように言い、話合いをするため、Aが予約していた午前九時出発の便を、午前一一時一五分出発の便に変更させた。その上で、被告人とAは、同空港ターミナルビル三階にあるホテルのロビーに行って話をしようとしたが、そこが開いていなかったので、その向かいにある喫茶店「アビヨン」に入り、その後二階の喫茶店に場所を移して、出発時刻間際まで話合いをした。

15  「アビヨン」の構造は、入口から向かって右側にカウンターがあり、カウンターには数脚の椅子があって、カウンター席は、滑走路等を見渡せる窓に面している。カウンター内には店員がいて、向って右端の通路から外部と行き来できるようになっている。カウンター席の背後には、丸テーブルが数個あり、その周りにはそれぞれ四脚の応接椅子が置かれ、その後ろ側には、カウンターと並行に壁に沿って多数の椅子が並べられており、その前に長方形のテーブルが数個置かれている。店内は、滑走路に面した窓と照明により、比較的明るい状況にある。被告人とAは、「アビヨン」の店内では、カウンター席の向かって右端の席に隣り合って座った。

16  Aは、被告人と別れた後、大阪空港内からD′に電話をかけ、これから覚せい剤を持ってそちらへ行くので、警察にすぐ連絡してほしいと伝えた上、同日午前一一時一五分出発の便に搭乗し、熊本空港へ到着した。

17  Aは、熊本空港に到着後、Cに連絡を取り、今熊本に来ており、Dを抹殺するために、被告人に言われて覚せい剤を預かっているなどと言った。その後、Aは、同空港内でD′と落ち合い、同女がかねて連絡を取っていた熊本県警の工藤保彦警部(以下「工藤警部」という。)と熊本北警察署で会った。

18  D′が帰宅した後、Aは、工藤警部に被告人から預かった物だとして、所携の鞄の中から茶封筒を取り出し、カプセルと銀紙包み入りの白色粉末を示した。その上で、Aは、工藤警部に逮捕の場所を熊本空港か熊本駅ということにして、自分を逮捕してほしいと訴えた。しかし、工藤警部は、Aの条件を受け入れることができなかったため、白色粉末の予試験も、同人の逮捕もすることなく、同人を説得して、帰した。

19  その後、Aは、東京方面に戻ったが、被告人やBの関係者とは一切連絡を絶ち、姿をくらました。Aは、平成九年一月六日ころ、いきなり本件覚せい剤(平成九年押第一四九六号の3ないし6)をビデオテープ、岩原弁護士宛ての書簡と共に、同弁護士の事務所に郵送して送りつけた。岩原弁護士は、同月九日、本件覚せい剤を警察に任意提出した。

第四  Aの供述の信用性の検討

一  Aの証言の内容

Aの供述の検討に先立ち、前記の前提となる事実を超える内容について、その証言内容の要旨を紹介する。Aの証言は、証言の都度変遷しているので、これを要約することは困難であるが、検察官が論告の中で要約している最終形と思われるものを基に紹介する。

1  私は、Bが逮捕勾留中、バカラ社に発注したウィスキーの入れ物等の約二億円の支払いに充てるため、横山大観の絵画と本件マンションを担保にバンク・オブ・クウェートから融資を受けた。Bが保釈になった後、絵と本件マンション、本件ワインを私が勝手に処分しているとHがBに説明したので、Bが烈火のごとく怒っていると聞き、Bにこれらの件について話もできず、身を隠してしまった。

2  平成六年にBの配下のJに見つけられて、Bの事務所に連れて行かれ、絵と本件マンションの件を尋ねられた。平成八年六月に、順天堂大学病院で、Bに会って、〈1〉私がCへの返済資金として預かった一億円のうち、五〇〇〇万円しかCに支払っていないという点、〈2〉司家の宝物から刀が三振りなくなっているという点、〈3〉司家が三和銀行から借り入れをしたのが私の指示によるものではないかという点について、尋ねられた。〈2〉と〈3〉の点の疑いは晴れた。〈1〉の点について、私は、Cに五〇〇〇万円を現金で、残り五〇〇〇万円を保証小切手で渡したが、Cは、現金五〇〇〇万円しか受け取っていないと主張して、平行線のままだった。私は、さくら銀行アークヒルズ支店に五〇〇〇万円の保証小切手から後を追うことができないかと尋ねたが、日にちが経っているので、誰が引き落としたかまでは答えられないと言われ、疑いを晴らすことができなかった。

3  平成八年七月に、私は、被告人に本件ワインの関係の引継ぎをするため、被告人、Fとロンドンに本件ワインの在庫を確認しに行ったが、私が逃げた当時在庫はまだあったので、その時もまだあると思っていた。私は、被告人やFから、本件ワインと本件マンションについて、ロビンと組んで勝手に売ったのではないかと疑いをかけられた。ロンドンのホテルの部屋で、被告人から「本当のことを言え。」と言われ、「本当に真実だったら、自分の腕を潰してみろ。」と言われて、ワインの瓶を差し出された。その後、ヘルスメーターで腕を殴られ、ワインの瓶で頭を殴られた。その前日に、被告人とFと私の娘が働いているレストランへ行って、被告人に娘の顔を見られており、「警察に言ったり、逃げたりしたら、子どもを殺すぞ。」と言われた。

4  被告人から、本件マンションを黙って質入れしたことによる損害を埋めるだけの金を作れと言われ、Dが前に金を借りていた熊本の永井運送へ手形を持って行って、割り引いて来いと指示された。私が被告人の指示に従って動いていたのは、ロンドンで暴行を受けた時に、私の荷物やパスポート、住所録等を全て取り上げられ、コピーを取られたからである。Dからも、被告人から部屋に監禁されて短刀を突き付けられて自殺を迫られたことや被告人の事務所でゴルフクラブで足のすねを殴られたことを聞いており、Dが足から血を流しているのを見たことがある。この後、同年一〇月初めころから、被告人の行動をDに連絡するようになった。

5  同年一一月中旬以降、被告人が私に、Dを外国にでも連れて行って、手荷物の中に覚せい剤を隠しておき、Dを逮捕させて、社会的に抹殺するという趣旨のことを話したことがあったが、それ以上進展はしなかった。

6  同年一二月一七日ころ、被告人がFとイギリスへ行く時に、成田空港に見送りに行った際、被告人から、「一九日か二〇日ころ、おまえ宛てに郵便物が届くので、それを確認して取りに行くように。」と指示を受けたので、同月二〇日、東京中央郵便局で局留めとなっている私宛てのゆうパックを受け取った。その中身は知らなかった。

7  同月二三日午後二時ころ、被告人と大阪空港で待ち合わせ、梅田新道にある喫茶店に行き、午後四時半か五時くらいまでいた。そこでは、被告人がFとイギリスへ行った時の話と明日熊本のDの所へ行くという話などが出た。

8  次に、梅田の串揚げ屋に行って、被告人とビールを飲んだ。串揚げ屋には二〇分くらいいた。そこで、私は、被告人に私の妻が滋賀の病院に入院していると嘘を言った。その後、午後五時半から六時ころまで、梅田の地下の「キディランド」というおもちゃ屋に入った。被告人は、大きなぬいぐるみを買って、店員に「明日取りに来るから。」と言っていた。

9  この日最後に、午後六時一五分ころから八時ころまで、ヒルトンホテルの近くの喫茶店「珈琲館」に入り、被告人から持ってくるように言われていたゆうパックを被告人に渡した。そこで、被告人から「明日熊本に行く目的は、Dに覚せい剤を飲ませて、社会的に抹殺することだ。」と言われた。カプセルの話とか、コーヒーに溶かして飲ませるという話も出た。被告人は、「一回くらいの使用量だったら世間的には騒がれないんで、多量の覚せい剤を置いておけばいい。」とも言っていた。翌日被告人と大阪空港で待ち合わせることとなったが、この時は、被告人も私と一緒に行くという前提であった。

10  私は、この日、司家に三回電話をした。一回目は、被告人と会う前で、電話に出たD′に、「今日突然そっちに行くことはない。」と話した。二回目は、被告人と一緒にいる時で、やはりD′が出たので、被告人の指示により、「明日そちらに行くので、Dに家にいるように。」と言った。三回目は、被告人と別れてからで、D′とDが出て、「明日行く目的は、覚せい剤をDさんに飲ませて、なおかつ置いてこようとしていることなので、家にはいない方がいいよ。明日一緒にもし行ったら、その後、僕からは連絡が取れないので、Dさんはいない方がいいよ。もし僕が一人で行くようなことになれば、そのまま警察に連絡しておいた方がいいんじゃない。」と言った。

11  翌二四日、被告人と大阪空港で落ち合い、被告人が「自分は、今日熊本へ行けなくなった。打合せがある。」と言うので、午前九時発の便の予約を午前一一時一五分発の便に変更した。被告人と三階の喫茶店「アビヨン」に入り、カウンター席の壁際に座った。当時、カウンター席には誰も座っていなかったが、テーブル席には、何組か人が座っていた。私は、熊本へ私一人で行くことになったと聞いて、思わず「えっ」と叫んだ。被告人は、覚せい剤をDに飲ませる方法について具体的に指示した。被告人は、「カプセルに詰めた漢方薬に似せたものがあるので、それを飲ませろ。」「銀紙に一回分の覚せい剤を包んであるので、それを弁当なんかに入っている醤油差しに水溶液として溶かして入れて、コーヒーの中に混ぜて飲ませろ。」「D自身がコーヒーを飲むときには、砂糖をいっぱい入れるので、覚せい剤を少々この水溶液で溶かしたものであれば分からないから、気付かれずに飲むはずだ。」「家に行ったときにコーヒーが出るだろうから、それを飲ませろ。」「裏ビデオを付けてあるから、Dは女好きなので、女の話を色々してくるうちに、裏ビデオなんかの方に話を持って行って、興奮してきたら、これは漢方薬で非常に精力剤としても強いものだから、一回飲んでみたらどうかと勧めろ。」などと行って、Dに覚せい剤を飲ませる方法について指示した。さらに、被告人は、「他に二袋あるので、大きな袋に入っているので、それは家のどこかに隠しておけ。」「応接室のソファのマットとマットの間にでも置いておけ。」「一回分だったら罪が軽いので、たくさん置いておく。」「飲ませ終わったら、あるいは隠し終わったら、直ぐに電話してこい。」「警察に電話すると同時に、新聞社にも電話する。」などと言っていた。被告人は、そのようなことをする理由について、「とにかく最近生意気で、自分の言うことを聞かないし、これ以上熊本にいさせても、会長(B)に迷惑をかけるだけなんで、社会的に抹殺してやる。」と言っていた。

12  被告人は、大きな鞄を膝の上に載せ、私に中身が見えるようにして、「これが置いてくる分だぞ、この銀紙が溶かす分だぞ。」と言って、カウンターの上に出さないで、鞄の中で説明した。被告人は、鞄の底から茶封筒を取り出し、鞄の中で茶封筒の口の両端を持って封筒の口を開き、封筒を少し振るようにして、中身を上に来るようにして見せた。茶封筒の中には、ビニール袋に入れられた錠剤とカプセル、銀紙包みと別の封筒が入っていた。鞄の中のビデオテープも見せられた。被告人から、自分の鞄に早くしまっておけと言われたので、私は、茶封筒とビデオテープを私の鞄に移し替えた。被告人は、一番外の茶封筒と裏ビデオのプラスチックのカバーは、指紋が着いている可能性があるので、熊本空港に着いたら捨てるようにと指示した。被告人から、帰りの航空運賃とホテル代、Dが女が欲しいと言ったらソープにでも連れて行って来いということで、現金一五万円を渡された。

13  私は、最初から被告人の指示に従うつもりがなかったが、セキュリティー・チェックまで入ったので、そのままゲートに入らざるをえなかった。被告人とは、そこで別れた。大阪空港で出発前に熊本のDに電話すると、D′が出たので、同女に「覚せい剤を私が預かってそちらへ行くことになったから、警察の方に直ぐ連絡しておいてくれ。」と言った。

二  Aの証言の変遷状況

Aは、第二ないし第四回、第一一回、第一二回、第一四回公判において証言しているが、その証言は、回数を重ねるごとに、場合によっては、同一公判期日の中においても、微妙に変化しているので、以下、主要な点についてこれをみることにする。

1  一二月二三日に覚せい剤に関する話が出たかについて

(1) Aは、第二回公判において、平成八年一二月二三日(以下、特に断わらない限り、月日で表示するのは、平成八年のことである。)に被告人と会った時に、被告人がイギリスへ行った時の話と明日Dの所へ行くという話が出たと証言した後、検察官の「二三日の話はその程度ですか。」との問いに対して、「はい。」と答えている。

(2) ところが、Aは、第三回公判における弁護人の反対尋問に対し、一転して、「二三日の最後の喫茶店で、ゆうパックを渡す時にその話が出ております。」と答え、裁判官の「覚せい剤の話というのは、どういう話ですか。」との問いに対して、「Dにカプセル入りの覚せい剤を飲ませて、それから水溶液にしたものをコーヒーに入れて飲ませるというような話が出て、ただし、その時は自分も一緒に行くということだったので、ただそのくらいの話で終わりました。」と答えている。

(3) Aは、第四回公判においては、検察官の質問に答えて、一一月中旬ころ被告人から、Dを外国にでも連れて行って、荷物の中に覚せい剤を隠しておき、Dを逮捕させて、社会的に抹殺するという話を聞いたことを、初めて証言している。そして、前からこのような話があったので、一二月二三日には明日覚せい剤を持って熊本に行くという話があった程度で、具体的に水溶液とかいう話は出なかったと証言している。

Dを外国に連れて行って、荷物の中に覚せい剤を隠しておき、Dを逮捕させて社会的に抹殺するという話は、一二月二三日に覚せい剤についての具体的な話が出なかったことをいうための伏線として持ち出されていることは明らかであり、作為的な印象を与えるものである。

(4) Aは、第一一回公判においては、いったん弁護人の「一二月二三日の段階で、たとえば、覚せい剤の水溶液だとか、覚せい剤のカプセルだとか、そういうような話は出ているんですか。」との問いに対して、「いや、出ていなかったように記憶します。」と答えながら、その直後に、第三回公判における答えとの食違いを指摘され、どちらが本当かと尋ねられると、「だったら、その調書のほうが、ほんとだと思います。」と答えて直前の証言を撤回している。その後、被告人の指示に関するAの答が抽象的であったため、裁判官から被告人から言われた言葉を記憶しているとおり述べるように言われたのに対し、「コーヒーに溶かして飲ませるとか。」「それから、カプセルの話が出たんですけれども、具体的に、どういう言い方というのは、すみません、ちょっと覚えておりません。カプセルを飲ませるというようなことを言っていたと思います。」と答え、どのような流れでそのような話が出たのかとの裁判官の問いに対して、「Dを、とにかく、抹殺するんだというような話の流れから出て、それで相当量を家の中に置いとけばいいような話が出たように思います。」と答え、裁判官の「少量の覚せい剤の所持では執行猶予が付いてしまうので、多量の覚せい剤を置いておく必要があると言ったというんですか。」との問いに対して、「はい、そのように……。」と、「二三日の段階で、そういう話もあったんですね。」との問いに対して、「……すみません、今、ちょっと、日にちが特定できません。申し訳ありません。」と答えるに至っている。

このように、Aの証言は目まぐるしく変遷しているが、一二月二三日の時点での覚せい剤に関する話の内容は、全くあいまいで、具体性を欠いている。このことは、同月二四日に被告人から覚せい剤に関する指示を受けた時の状況に関する証言が、前記のとおり微に入り細を穿っているのと極めて対照的である。そして、多量の覚せい剤を置いてくるという点の指示が一二月二三日にあったか、翌二四日にあったか、日付を特定できないと証言している以上、翌二四日にどのような指示があったかについても、不明確であることにならざるをえない。ひいては、二四日の状況に関する微に入り細を穿った証言の信用にも、疑問が生じるのである。

(5) ちなみに、Aの捜査段階における供述をみると、事件に最も接着した(本件があったとされる日の一か月後である)平成九年一月二三日付け検察官調書では、一二月二三日に被告人と会って、翌日熊本へ行ってDに会ってほしいと言われたので、引き受けたと述べるに止まり、同日覚せい剤に関する話があったことは、全く現れておらず、その後の同年二月一〇日付け検察官調書でも、同様である。

(6) これに対し、同月一九日付け検察官調書では、Aは、「一二月二三日に被告人と会った際、被告人が『明日、熊本のDのところへ行く。』などと言っていた。その後、被告人と夕食を取った後に入った喫茶店で、被告人にゆうパックを渡したが、被告人から翌朝七時に大阪空港に来るよう指示された。被告人と別れた後、熊本のDのところへ電話をかけ、D′に、『明日、甲野と二人でDさんのところへ行くようになるかもしれない。警察に連絡しておいた方がいいかもしれませんよ。甲野は麻薬でDさんを社会的に抹殺するというような話をしていたことがあるので、もしかするとそのようなことになるかもしれません。』というようなことを話した。被告人は、一二月二三日にあった日には、言葉には出していなかったが、以前、私に対して、Dを外国にでも連れて行って、荷物の中に麻薬を隠しておき、Dを警察に逮捕させて、社会的に抹殺するという趣旨のことを話したことがあったので、D′にも、『甲野は麻薬でDさんを社会的に抹殺するというような話をしていた』というようなことを話した。」と供述する。

このように、検察官調書においても、Aの供述は、曖昧であるが、公判廷での証言と似たような変遷をたどっている。そして、Aの平成九年二月一九日付けの検察官調書がD′の検察官調書の翌日に録取されていることからすると、同女の供述に合わせて、一二月二三日夜にD′に前記のとおり電話で指示したことを供述し、これとのかねあいで、それ以前にDを外国に連れて行って、荷物の中に麻薬を隠しておき、Dを警察に逮捕させて、社会的に抹殺するという話をしたことがあったと供述するに至ったものと推認することができる。ただ、いずれにしても、一二月二三日に覚せい剤に関する話が被告人から出なかったという点では、検察官調書の供述は、一貫しているということができる。

(7) なお、Aは、自身の刑事裁判の第一回公判においては、一二月二三日に被告人から「Dがこの頃生意気で言うことを全く聞かなくなったので、社会的に抹殺しようと考えている。それには、覚せい剤を飲ませるとともに、所持ということでたくさんの量の覚せい剤をDの家のどこかに隠しておこう、ということを言われました。」と供述している。この公判供述が行われたのは、平成九年三月二五日であるところ、Aは、その後の同年六月一一日に行われた本件第二回公判においては、前記のとおり、一二月二三日に被告人から覚せい剤に関する指示があったとは証言しておらず、覚せい剤に関する指示は全て翌二四日にあったと証言しているのである。いかに、この点について、検察官から一二月二三日の状況について詳しく尋ねられなかったとしても、自身の法廷で供述していることを真実体験したのであれば、その後に行われた証言の際に落とすということは、およそ考えられないことであって、この点は、Aの証言の信用性に重大な疑問を投げかけるものである。

(8) 以上のとおり、一二月二三日に覚せい剤に関する話が出たかについてのAの証言は、変遷が著しいとともに、曖昧であり、かつ、矛盾を含んでおり、検察官調書の供述をも合わせると、このことはいっそう明らかというべきである。右の点に関するAの証言に信用性が認められないのはもとより、一二月二四日の被告人の指示に関するAの証言の信用性も、疑問であるといわざるをえない。

2  一二月二四日に覚せい剤入りの茶封筒を見せられた時の状況について

(1) Aの第二回公判における証言には、この点に関し微妙な言い回しの変化が見られる。すなわち、被告人が黒い大きな鞄を膝の上に載せて、「私の方に中身を見せるような形で、これが置いてくる分、これが混ぜる分というふうに、鞄の中で話をしました。」と証言し、「鞄の中で実際に覚せい剤の包みを開いたりしたんですか。」との検察官の問いに対して、「茶封筒に入っていたものを口を開いて見せました。指をさして指示がありました。」と証言し、あくまでも、茶封筒に入った覚せい剤の包みを、鞄の中で口を開いて見せたという内容になっている。ところが、その直後に、Aは、「鞄をこうやって開けて、それで茶封筒のところから、これが今言ったあれで、ちょっと出してみろということで、出して、これが置いてくる分だぞ、そして銀紙を出してみろ、で、この銀紙が溶かす分だぞと、ビニール袋に入った分が、これが漢方薬ということで飲ます分だぞと、そういう指示を受けました。」と証言する。これによれば、被告人が茶封筒から中身を取り出すよう指示し、これを受けて、Aが中身を出し、被告人が「これが置いてくる分」「この銀紙が溶かす分」「これが漢方薬ということで飲ます分」などといいながら、指示したように理解できる。これは、いかにも鞄から外に出してカウンター等の上に置いたように受け取れる。Aは、その後に実際にカウンターの上に出したりはしていないと証言しているのであるが、これが前後矛盾を含んでいることは明らかである。右の点は、一件些末な点ではあるが、被告人が指示した際に覚せい剤を取り出したかどうかという証言の核心部分に関するものであるだけに、単なる言い間違いとして看過することはできない。

(2) Aは、第三回公判においては、右の点について、「かばんの中に茶封筒が入っていまして、その茶封筒の口を開けるようなかっこうで、ここに入っているからという話でした。」「僕が見てみろと言われてみたときには、要するに封筒がこういうふうに立った状態で、こう口を開けるような、両端を持ったら口が開きます、そういうような状況で中をのぞかせました。」と答え、封筒を上からのぞき込んで、ビニール袋に入れた錠剤、カプセルがその状態で見えたかとの弁護人の質問に対して、「はい。それは、上から見て、それできっちりとした形では当然見えなかったんですけれども、その錠剤とかカプセルがそこに入っているということで、上からその形というのは判別できました。」と証言している。さらに、被告人が茶封筒の中から錠剤やカプセルの入っているビニール袋を取り出したのではないかとの弁護人の問いに対して、「いえ、取り出したというか、こういう状態でこっちにこうずらしたわけですから、そこで見ているんです。要するに、かばんから茶封筒を取り出して、こうやって斜めにして、で、少し振るような状態で見せたということです。」と答え、「今の話ですと、かばんから茶封筒をいったん取り出したんですね。」との弁護人の問いに対して、「いえいえ、かばんの中でこういうふうに。だから、かばんの中では触っております。」と答えている。

Aが、再三の否定にもかかわらず、「かばんから茶封筒を取り出した」と言いたがる傾向があることは、否定しがたいところである。その点はさて置くとしても、この第三回公判における証言では、かばんの中で茶封筒を振るようにして見せたという表現が初めて現れ、他方、第二回公判においてみられた、被告人が「これが置いてくる分」「この銀紙が溶かす分」「これが漢方薬ということで飲ます分」などといいながら指示したという表現が現れていないことにも、注目すべきである。

(3) Aの第四回公判における証言にも、この点に関して微妙な言い回しが見られる。すなわち、「茶封筒の口を開いてですか。」との弁護人の問いに対して、Aは、「はい、カプセルに入った分を少しいったん僕は引き出しました。」と答えている。この表現は、それまでの証言と微妙に異なっており、初めて現れたものである。

(4) Aは、第一一回公判において、検察官から右の点について動作をするように求められ、これを検察官が「今やった動作というのは、封筒の長い辺の両端を指で挟んで口を開くようにして前後に振るという格好ですね。」とまとめたのに対して、「はい。」と答えている。そして、検察官が「今、ちょっと証拠品保管のためのビニールが厚くなっていますけれども、それで出にくい状況ですが、その当日の日は、そのように振ったために封筒のこの口の方に出てきたというか、それで見える状態になったということですね。」と質問したのに対し、直接答えず、「錠剤と、それからカプセルが一つ袋に入っておりました。」とだけ答えている。

(5) ところが、Aは、第一二回公判においては、少しぐらい振った程度では、錠剤入りのビニール袋が上にずり上がってくることはないのではないかとの弁護人の質問に対して、「いえ、上がってまいりました。」と断定的に答えている。

この茶封筒を振ったために、ビニール袋がずり上がってきて中の錠剤やカプセルが見えたというのは、第一一回及び第一二回公判において初めて現れた表現であり、この段階でこういう供述が現れるということ自体不自然であるといわざるをえない。それはさて置き、茶封筒の底の方の両端を持って、封筒を上下させない限り、おそらく、中身が見えるということはないと思われるのであり、茶封筒の長い辺の両端を指で挟んで口を開くようにして前後に振ると中のビニール袋がずり上がってくるという状況は、どう考えても重力の法則に反しており、実験によって再現可能か極めて疑問である。

(6) Aの捜査段階での供述をみると、Aは、平成九年一月二三日付け検察官調書では、「甲野が出してきた茶封筒は、甲野に『中を出してみろ』と言われて、私が手にして在中品を出したところ、更に銀行の封筒が入っており、その中に覚せい剤と思われる結晶の入ったビニール袋二袋と覚せい剤と思われる白い粉の入った銀紙一つが入っておりました。」「私は甲野の指示で銀紙を開けてみると、中に覚せい剤と思われる粉が少し入っているのを見ました。甲野は、その銀紙の中の覚せい剤の量が、Dの飲み物に混ぜてDに飲ます一回分の量だと説明してくれました。」と供述している。このように、Aは、被告人に指示されて、茶封筒から覚せい剤と思われる結晶の入ったビニール袋二袋と銀紙一包みを取り出した上、銀紙を開けて中に覚せい剤と思われる粉末が入っていることを確認したと述べているのである。

(7) さらに、Aの同年二月一九日付け検察官調書には、この点について具体的な供述がある。すなわち、Aは、「甲野は、『カプセルに入れたものを飲ませればいい』などといいながら、甲野が持っていた黒い鞄の中から、茶色の封筒を取り出しました。そして、甲野は、その茶色の封筒を開け、中からまず、カプセルと錠剤の入った透明のビニール袋を取り出して、私に見せました。甲野は、そのカプセルについて、『このカプセルの方は、漢方薬に覚せい剤を混ぜたものだ。錠剤の方は、ビタミン剤だ。カプセルも錠剤も精力剤だと言って、Dに飲ませろ。』などと言っておりました。」「そして、カプセルや錠剤の入った透明のビニール袋を、一旦、茶色の封筒に戻した後、今度はその茶色の封筒からどこかの銀行の封筒(二つ折りにしたもの)を出してきました。甲野は、その銀行の封筒の中身を私に見せるようにしてきましたので、その封筒の中身を見たところ、その中には、覚せい剤が入っているビニール袋二袋と銀紙包み一つが入っておりました。覚せい剤が入っているビニール袋二袋のうち、一袋は、上の方に少し曲げて、ガムテープが張ってあるものでした。甲野は、このビニール袋二袋について、覚せい剤だという趣旨のことを言っておりました。」と供述している。このAが供述する状況は、被告人が鞄の中から茶封筒を取り出し、さらにその中から覚せい剤が入っていると思われる内容物を出して見せたものであることが明らかである。

このように、この点に関するAの捜査段階での供述は、公判廷での証言と相反するものである。Aがこのように供述を変遷させた理由は、定かではないが、捜査段階での供述では、喫茶店「アビヨン」のカウンターで茶封筒を取り出し、これから覚せい剤が入っていると思われる内容物を出して見せたという状況が、公衆の出入りする場所での行動として余りにも大胆であって、信用性に乏しいことを慮ったのではないかと思われる。

(8) なお、検察官は、論告において、Aが被告人から覚せい剤などを受け取った時の記憶とその数時間後に工藤警部の面前で茶封筒の中身を改めた時の記憶を混同したと主張している。しかし、Aが後者の時点の記憶を意図的に遡らせて前者の時点に体験したかのように供述した可能性はあるとしても、大阪空港内の公衆の出入りする喫茶店での被告人から指示された際のことと、その数時間後のこととはいえ、熊本北警察署の取調室で工藤警部と一対一で事情を聴取された時のことは、Aにとっていずれも極めて印象深い出来事のはずであって、両者を混同して取り違えるとは、到底考えがたいところである。しかも、事件の約一か月後の取調べの時点で混同を来し、事件の約五か月後の証言の時点(第二回公判)でこれを訂正したという経緯自体、不自然であるといわざるをえない。

(9) 以上のとおり、一二月二四日に覚せい剤入りの茶封筒を見せられた時の状況に関するAの証言は、所々に綻びを見せながら、不自然な変遷を経て、不合理な内容に落ち着いているのであるが、検察官調書の供述に照らすと、その変遷ぶりは顕著である。右の点に関する証言がAの証言の中でも核心部分であるだけに、その不自然な変遷は、当該部分ばかりでなく、被告人の覚せい剤に関する指示及び被告人からの覚せい剤の譲渡状況全体についての証言の信用性に影響を及ぼすといわざるをえない。

3  被告人がDに覚せい剤の罪を着せようとした理由について

(1) Aは、第二回公判においては、右の点について、「とにかく最近生意気で、自分の言うことを聞かないし、これ以上熊本にいさせても会長(B)に迷惑をかけるだけなんで、社会的に抹殺してやるというふうなことを私に言っていました。」と証言し、被告人がそのようなことをしてまでDを社会的に抹殺しようと考えたか、思い当たる点はないかとの検察官の質問に対し、「それまでそういうDの知り合いからDを使って金を借りさせた分やなんかが色々あったんですけど、それが会長の耳に入ることを非常に怖がっていたと思います。」「永井運送なんかの件でも、はっきり会長グループのという名前を出して、自分が保証人になって借金等をしているわけですから、そういったこと、そのグループの名前を使ってということがばれるのを非常に恐れていたんじゃないかと思います。」と証言している。このように、この段階では、Aは、被告人が本件を企ててDを社会的に抹殺しようとしたのは、被告人の独断によるものであり、被告人がBのグループの名前を使ってDに金を借りさせたことなどが、DからBの耳に入るのを恐れていたからであるとの認識を表わしている。

(2) Aは、第四回公判において、検察官の質問に答えて、一一月中旬以降、被告人が、Dを外国に連れて行って、手荷物の中に覚せい剤を隠しておいて逮捕させ、社会的に抹殺するという趣旨のことを話した旨証言し、その後、被告人が本件を起こした動機として思い当たる点はないかとの検察官の問いに対して、「一つはDを社会的に抹殺しようとしたということは間違いないと思いますが、同時に私も同じようにこれに関連したということで、要するに逮捕させよう、逮捕させるといったらおかしいけれども、共犯というか、この事件で葬り去ろうとしたんじゃないかという気はあります。」と答えている。

(3) Aは、第一一回公判において、この点について、弁護人の質問に答えて、「まず、自分のいうことを全然聞かなくなってきたということと、それから、会長(B)自身が、Dというのは、もう、消しゴムで消したいような人間であるという表現をされました。」と答え、BがDを消しゴムで消したいような人間であるという意味は、「しょっちゅう、トラブルばかり起こしていたので、とにかく、接点を、もう、きれいに、ゼロに戻したいと。要するに、今までのつながりを無くしたいというような感じのことは聞いていたので、そちらに結びつけたということです。」と答え、この意味は、被告人が言ったことではなく、自分の推測であると証言している。しかし、Aは、BがDを消しゴムで消したいような人間であると被告人が言ったのが一二月二三日のことか、翌二四日のことかについては、答えられない状態である。また、右の表現は、捜査段階において現れておらず、この公判期日で唐突に現れたものであるが、弁護人から捜査段階において話さなかった理由について尋ねられても、やはり答えられない状態である。

Aの右の証言は、Dを社会的に抹殺することがBの意向に添うものであることを言おうとしたものであるが、それが被告人の独断によるものであるとした第二回公判における証言と相対立することは明らかである。

(4) Aは、第一二回公判において、「あなた自身がBから直接Dというのは消しゴムで消したいようなやつだという言葉を聞いたことがあるんですか。」との問いに対して、「はい、あります。」「平成八年の六月だったと思うんですが、順天堂大学の病院の中で会った時にそういうことを言われました。」と答え、検察官からBの言った言葉をできるだけ正確に再現するよう求められて、「ほっといたら何をやらかすか分からないし、もうDというのは、消しゴムで消したいような人間なんだということを言われました。」と証言している。さらに、Aは、その後Bが言っていたのと同じような内容の言葉を被告人から聞いたことがあるかとの検察官の問いに対して、「二、三回あります。」「一一月と、それからその一二月の二三日か二四日かはっきり覚えていないんですけれども、そういう時がありました。」と答えている。

右のAの証言は、第一一回公判における証言を合理化しようという意図から出たものと考えられる。しかし、AがB自身から「消しゴム」云々という言葉を聞いたという証言は具体的であるとはいえないが、このことを、この時期になって思い出すということは、明らかに不自然であり、Bが保釈中に所在不明になっていること(公知の事実である。)を考え合わせると、作為的なものを感じざるを得ない。

(5) この点について、Aの捜査段階での供述をみると、Aは、平成九年一月二三日付け検察官調書では、被告人が「Dは、生意気で言う事を聞かないので、社会的に抹殺してやる。」と言っていったと供述し、同年二月一〇日付けの検察官調書においても、同旨の供述をするにとどまり、同月一九日付け検察官調書においても、被告人が「Dは自分の言うことをきかないし、このまま大きな顔をさせて正月を過ごさせるわけにはいかない。」などと言ってたと供述している。このように、Aは、捜査段階において、被告人がDを社会的に抹殺する必要があると言った理由について、詳しく述べておらず、まして、それがBの指示によるものであるとは言っていない。

4  被告人の指示に対してAが驚いた状況について

(1) Aは、平成九年一月二三日付け検察官調書では、一二月二四日に「アビヨン」で「甲野は、私に『Dの家へ行く目的は、Dに覚せい剤を飲ませることだ』などと言いました。私は、突然そのようなことを言われたので驚き、『えっ』と言って聞き返したのですが、甲野は、『カプセルに入れたものを飲ませればいい』などと言いながら、甲野の持っていた黒い鞄の中から、茶色の封筒を取り出しました。」と供述する。右の被告人の指示を初めて聞いて、Aが驚いて『えっ』と言って聞き返したというのは、真偽はともかく、人間として自然な感情の発露というべきである。

(2) Aは、第二回及び第三回公判においては、右の点について、何ら証言していないが、第四回公判に至り、弁護人から、一二月二三日に被告人から「具体的な話を聞いて、驚いたというようなことがなかったんですか。」と質問されて、「その日は具体的な話は、出ておりませんので、覚せい剤を使ってという話だけでした。」と答え、さらに、「あなたが被告人からDに覚せい剤を飲ませるとか、置いて来るとかいうような話を聞いて驚いたと、びっくりしたというような印象を持った時はいつなんですか。」との問いに対して、当初は答えられず、「二三日なんですか、二四日なんですか。」と尋ねられて、「二三日だったと思います。今、申し訳ありません、少しはっきりしません。」と答え、さらに、弁護人から検察官調書の内容を確認されて、「具体的にその私に指示があったのは、二四日でした。その水溶液であるとかそういったものに関しての指示があったのは、二四日でした。」と答え、それは、Aが一人で熊本へ行くということに対してであると証言している。右の証言が、前後矛盾し、曖昧であることは明らかである。しかも、その前日に被告人からDの家へ行く目的は同人に覚せい剤を飲ませることだと聞かされた時には何ら驚かなかったAが、被告人からDの家へ一人で行くように言われたので驚き、思わず『えっ』と言って聞き返したというのは、前記の検察官調書と比較して不自然であることは明らかである。

(3) また、Aが一二月二四日に『えっ』と言ったという状況は、前記の検察官調書では、喫茶「アビヨン」で被告人が熊本へ行く目的を説明した時のものであるとされており、Aの第四回公判における証言も、これを前提とするもののように思われる。しかし、Aは、第三回公判において、一二月二四日午前七時に被告人と空港ロビーで落ち合った際に、被告人から「自分は、今日熊本へ行けなくなった。」と言われ、この時点でAが一人で熊本へ行かなければならないことが分かったのであるから、Aが右の点に驚いたというのであれば、この時点で驚いてもよいはずであるが、その旨の証言がないことは、前述のとおりである。

5  まとめ

以上のとおり、Aの供述は、本件の重要な点において、不自然不合理な変遷を重ねており、かつ、曖昧な点も多く、実際の体験を有する者の証言とは到底思えないほどである。また、同人の供述の変遷過程には、他の者の供述や後で明らかになった客観的事実に合わせてつじつまを合わせようとしたり、前後矛盾することを指摘されて、これを言い繕おうとした結果ではないかと考えられる。結局、Aの証言は、変遷状況からして、信用性に乏しいことは明らかである。

三  Aの証言の信用性の検討

Aの証言は、詳細かつ具体的であって、一見したところ信用性に富むかのようである。しかし、右の証言には、先に見た変遷等により曖昧になっている点以外にも、内容的にいくつかの点で重大な疑問がある。

1  最初に指摘すべき疑問点は、被告人がAに対して、喫茶店「アビヨン」でDに覚せい剤を飲ませ、同人宅に覚せい剤を置いてくるよう指示し、覚せい剤の入った封筒を受け渡したとする点である。

一般に、禁制品である覚せい剤の授受やこれに関する打合せは、秘密裡に行われるものであって、通常、これが密室かこれに準じる場所で行われていることは、経験則上も明らかである。それなのに、Aの証言によれば、右喫茶店のカウンター席に他の客はいなかったとはいうものの、同所は、公衆が出入りする場所であり、Aの証言によっても、当時カウンターの向こう側では、従業員が出入りしており、カウンター席の背後のテーブル席には客が何人かいたのであり、しかも、前記のとおり、テーブル席からはカウンター席の様子が丸見え同然であったから、機密性が全く保たれておらず、およそ秘密の打合せや禁制品の授受をするにはふさわしくない場所である。このような場所で、被告人とAが飛行機の出発時刻間際までの約四時間もの長時間にわたって(Aの証言では明らかでないが、二階の喫茶店に移ってから覚せい剤に関する話をしていないとすれば、若干これより短くなる。)、たとえAが証言するように小さな声であったとしても、覚せい剤に関する打合せをし、また、その授受をしたというのは、通常の覚せい剤取引の実態からすればおよそ考えられないことである。しかも、大阪空港にはホテルが併設されており、被告人とAもこの日いったん空港内のホテルのロビーで話をするため、入ろうとしたほどであるから、その気になれば、ホテル内の部屋を借りるとか、レストランや喫茶店の個室を探すこともできたはずであり、容易に密室を確保することが可能であったと思われる。それにもかかわらず、被告人がそのような場所を探そうともせず、Aに対して、わざわざ公衆の出入りする場所で覚せい剤に関する打合せやその授受を行ったというのは、まことに不自然であるといわねばならない。

2  次に、疑問があるのは、被告人がAに対してDに覚せい剤を飲ませ、同人宅に覚せい剤を置いてくるよう指示し、Aがこれを承諾した際のやりとりや、この間のAの内心の動きが欠如しているという点である。

Aは、本件犯行当時、前科が全くなかったのであるから、覚せい剤の譲り受け、これを所持し、Dに飲ませて使用するといった悪質な犯罪行為に関わることに相当な抵抗があったはずであり、Aも、現に「最初から被告人の指示に従うつもりがなかった」と証言している。そうだとすれば、Aが被告人からそのような指示を受けたとすれば、嫌だと言って断るのが、通常の行動ではないかと思われ、これに対して、被告人とすれば、Aに承諾させるために、脅したりなだめすかしたりして、いろいろと説得に当たるのが自然であると思われる。ところが、Aの証言によれば、同人は、被告人の指示に対して、当然の職務であるかのようにこれを引き受けており、当然あってしかるべきと思われるAの抵抗や被告人の説得に関するやりとりが全く欠如している。Aは、第四回公判において、自分に対する暴力と家族を一人ずつ殺していくなどと脅されていて、被告人が怖かったので、被告人の依頼を拒否できなかったと証言するが、被告人からそのように脅されたのがいつの時点か明らかでなく、右の内容自体具体性に欠けるものである。しかも、右の証言は、弁護人の反対尋問の中で初めて現われたもので、検察官の主尋問には全く現われておらず、不自然といわざるをえない。また、Aが、被告人の面前では被告人の指示をいったん引き受けながら、これに従うつもりがなかったとしても、被告人や長年世話になっているBを裏切ってよいかといった点について、この時点で心理的葛藤があったはずであるし、その後どのように行動すればよいかという点についても、即座に答が出る性質のものではないから、あれこれ思い悩み、内心で思いめぐらしたことがあってよいはずである。ところが、Aの証言には、このような点は全く現われておらず、同人は、いとも簡単に被告人を裏切った後、前記第三の16ないし18のとおり、何のためらいもなく迅速果断な行動をしているのである。しかも、Aが、いつ、どのようにしてこのような行動を決断したのかについても、同人は、全く証言していない。

以上の被告人とAのやりとりやAの内心の動きが欠如しているということは、被告人がAに覚せい剤を譲渡し、これに関する打合せをした状況に関するAの証言が詳細を極めている点と、際立った対照をなしている。さらに言えば、同人が、工藤警部に逮捕してもらえなかったため、落胆し、その後岩原弁護士の事務所に覚せい剤を送りつけるまで、内心動揺してどうしてよいか分からなかったと証言していることに照らしても、先の点は不自然である。

3  Aが最初から被告人の指示に従うつもりがなかったといいながら、直ちに警察官に届け出ないで、熊本まで行ってから警察官に届け出ている点にも、疑問がある。

Aは、この点について、大阪空港で、セキュリティー・チェックまで被告人と一緒だったので、そのままゲートに入らざるをえず、熊本行きの飛行機に乗らざるをえなかったと証言する。しかし、セキュリティー・チェックを受けていても、大阪空港の係員に届け出て、さらに、警備のために空港に詰めている警察官への連絡を頼むなどして、警察官に届け出ることは容易であったはずであり、熊本行きの飛行機に乗る必要性はなかったというべきである。そうしていれば、まだ付近にいたはずの被告人を覚せい剤譲渡の現行犯人として逮捕することも可能であったと思われる。Aが被告人の指示に従うか否か、被告人を裏切った後の行動をどうするかについて迷いがあったのであれば、とりあえず被告人に指示されるまま飛行機に搭乗したということも、考えられないことではない。しかし、Aは、飛行機に搭乗する前に、熊本のD方に電話をして、D′に対し直ちに警察に連絡をする依頼しており、既にこの時点で確定的に被告人を裏切ることを決めていたのである。

このように、Aがあえて不要と思われるにもかかわらず、熊本へ飛び、そこで警察に届け出るという行動に出ていることは、既に前日D′らに電話で連絡していることからも窺えるように、これが同人にとって予定の行動であったためではないかと推認することができる。

4  Aの証言する一二月二三日の同人の行動には、不自然かつ不合理な点がある。

すなわち、Aの証言によれば、同人は、一二月二三日に、被告人から言われて持参した覚せい剤入りのゆうパックを持ったまま、大阪空港で被告人と落ち合った後、梅田新道の喫茶店、梅田の串揚げ屋でも被告人に渡さず、キディランドでは被告人がぬいぐるみを買うのに付き合った後、最後にヒルトンホテルの近くの喫茶店でようやく被告人に渡したことになる。しかし、Aの証言によれば、このゆうパックは、三〇センチメートル×二〇センチメートルで、厚さ五センチメートルとかさばる物であるから、被告人から持って来るように言われれば、被告人と会った直後に忘れないうちに早く渡したいと考えるのが、通常人の心理であり、そのようにするのが自然な行動である。しかし、これを右のように飲食店等を出入りするたびに持ち歩いたというのは、著しく不自然かつ不合理である。

5  Aが一二月二四日に熊本空港に到着した後の行動にも、不合理な点がある。

すなわち、Aは、前記のとおり、熊本北警察署で会った工藤警部に対し、逮捕の場所を熊本空港か熊本駅ということにして、自分を逮捕してほしいと訴えたが、工藤警部にこの条件を拒否された上、説得もされて、逮捕してもらえなかったのであり、Aは、被告人に怪しまれないために、熊本空港か熊本駅で逮捕したことにしてほしいと頼んだと証言する。しかし、Aの意図がその点にあるのであれば、熊本空港の職員や空港に詰めている警察官に覚せい剤の所持を申告すればよいのであって、工藤警部に裏取引を申し出る必要性など全くなかったのである。Aは、予めD′に警察に相談しなさいと言っていたので、空港で申告することなど思いもよらなかったと証言するが、これは、Aが覚せい剤を持って熊本へ行くことが予め予定した行動であることを自認したものにほかならない。

6  さらに、Aが一二月二三日の時点で被告人から預かり被告人に渡したゆうパックの中身を見ていないにもかかわらず、これが覚せい剤であるとの前提で、D′に警察に相談するよう指示しているという点には、根本的な疑問がある。

すなわち、Aは、一二月二三日の時点で、被告人から預かり被告人に渡したゆうパックの中身を見ていないにもかかわらず、これが覚せい剤であるとの前提で、D′に対し、覚せい剤を持っていくので警察に相談するよう指示しているのである。薬物犯罪や暴力団等と無縁な一般の市民が、荷物の中身を確認していないのに、やはり一般の市民である他人に対して、持参する荷物の中身が禁制品の覚せい剤であることを明かした上、警察に協力を求めるため、通報するよう依頼するということは、通常は到底踏み切れる行動ではない。Aは、覚せい剤とは無縁なはずであって、被告人からDを社会的に抹殺するために覚せい剤を飲ませ、Dの家に覚せい剤を置いてくると言われたとしても、実際に届ける物が覚せい剤であるのか確認もしていない段階で、直ちに警察に通報するようD′に連絡するというのは、余りにも手回しがよすぎるというべきである。Aがこのような行動をしているのは、確認するまでもなくそれが覚せい剤であることを予め知っていたからではないかという重大な疑惑がある。

7  被告人がDを覚せい剤使用や所持の冤罪に陥れる理由として、同人を社会的に抹殺する必要があると言ったという点についても、疑問がある。

前記のとおり、Bは、平成元年以来司家及びDに対して、資金援助をしてきており、その額も本件当時五億円を超えていたのであるから、Dとの関係を絶てば、司家が多額の負債を抱えたまま倒産し、Bの融資した貸金債権が焦げ付くのは必至であった。このように、Bは、Dとの関係を絶とうとしても絶てない状態にあったのであり、被告人としても、この状況は熟知していたと認められる。その上、被告人は、平成六年六月以降、Bに雇われて、司家の負債整理に当たっていた身であり、Bとの力関係からしても、同人の了解なしにDを社会的に抹殺するなどということは、常識的に考えがたいところである。したがって、被告人がDの知合いからDを使って金を借りさせた分などがあり、それがBの耳に入るのを非常に怖がっていたので、Dを社会的に抹殺しようとしたのではないかというAの証言は、たとえそれが事実であったとしても、右の点の根拠として薄弱であるといわざるをえない。

また、Aが平成八年六月に順天堂大学病院で会った時にB本人から直接Dは消しゴムで消したいようなやつだと聞いたことがあるとの証言については、前記のとおり、証言の経緯からして信用性に疑いがある。内容的にみても、Dの証言によれば、BがDに多額の資金援助をしていた上、同年七月から同年一〇月にかけて、生活費として三回にわたって各二〇万円を渡したほか、同年夏には、同人の長男の少年野球大会の遠征費用として八〇万円を援助していたことが認められるのであって、これに先立つ同年六月の時点で、BがDを社会的に抹殺することを容認するような発言をするとは考えがたいところである。

なお、Aは、A自身を社会的に抹殺しようとして、被告人が本件を仕組んだと思うとも証言しているので、この点について検討すると、後記のとおり、被告人がAの口から自分自身に累が及ぶことを顧ずに犯罪への加担を依頼するとは考えがたい上、Aを社会的に抹殺しようとすれば、Bに告げ口するなど、方法はいくらでもあるのであって、何もDを覚せい剤の罪で陥れるという危険な犯罪行為を依頼しなくてもよいと思われる。したがって、右の点も、被告人がDを覚せい剤使用や所持の冤罪に陥れる理由としては薄弱であるというべきである。

8  被告人がAをしてDを覚せい剤使用や所持の冤罪に陥れた後、この件がAや被告人が仕組んだものであることが発覚するのを防ぐために、被告人が何ら対策を指示していないという点も、疑問である。

すなわち、Aの証言によれば、被告人は、Dに覚せい剤入りのコーヒーを飲ませ終わったら、あるいは覚せい剤を隠し終わったら、直ぐに電話するように指示し、「警察に電話すると同時に、新聞社にも電話する。」などと言ったというのであるが、このような方法では、Dの口などからAや被告人が関与していることが容易に露見してしまうことは明らかである。Dに覚せい剤を使用させあるいは所持させて冤罪に陥れるという大それた犯罪を犯すに当たっては、そのことが容易に発覚しないように周到な対策を行うのが通常であろうし、少なくとも口裏合せの工作程度のことは行うものと思われるが、Aの証言によれば、被告人は、茶封筒と裏ビデオのプラスチックのカバーに指紋が着いている可能性があるので、熊本空港に着いたら捨てるように指示したに止まり、それ以上の罪証隠滅工作等を何ら指示していない。

この点をみると、Aの証言する被告人の指示は、通常のこの種の犯罪と比較して甚だ現実感に乏しい稚拙なものといわざるをえない。

9  そもそも、被告人がDを覚せい剤使用や所持の冤罪に陥れるについて、Aにこれを任せたという点については、根本的な疑問がある。

一般に、犯罪等の違法な行為を他人に依頼する場合にあっては、通常の事務を依頼する場合以上に、その相手方が信頼の置ける人物でなければならないことは、経験則上明らかである。Aが証言するように、被告人がDに対してそのような大それた犯罪を仕組み、その実行をAに全面的に任せるとすれば、Aが被告人の指示を忠実に実行し、被告人を裏切ったり、D側に寝返ったりせず、その秘密を容易に他に漏らさない者であること、換言すれば、被告人にとってAが信頼の置ける人物であることが前提となるというべきである。ところが、前記認定のとおり、被告人は、Fと共にAが本件ワイン及び本件マンションの処分に関与しているのではないかという疑いを抱いて、Aを追及していたのであり、到底同人を信頼していたとはいえない状態であり、同人の証言によっても、被告人はAに脅迫的手段を用いて本件の犯罪行為をはじめとする事務を指示していたというのであるから、決して同人を信頼していなかったことが窺える。それにもかかわらず、被告人が信頼の置けないAに、監視役を付けることもなく単独で実行行為を行わせれば、現に本件においてそうなったように、Aが被告人を裏切ることも、容易に予想しうるところである。

このように、Aの証言する被告人の犯行計画自体、この種の重大犯罪を指示するにしては、まことに杜撰であるといわざるをいない。

10  以上のとおり、被告人がDを陥れるために覚せい剤を譲渡したとするAの証言には、種々の点で根本的な疑問があり、内容的にも到底信用できるものではない。

四  A証言以外の間接証拠について

1  ゆうパックの存在について

検察官は、一二月一七日に淀川郵便局から東京中央郵便局留めでA宛てに発送され、同月二〇日同局でAが受領したゆうパックの存在がAの供述を裏付けていると主張する。Aの証言によれば、被告人が自らあるいは何者かを介して大阪からの東京のA宛てに覚せい剤入りのゆうパックを局留めで送り、そのころAに指示して同人に受領させ、これを同月二三日に大阪で会った際に持って来させ、同日夜にAから受け取った後、自宅でこの中から覚せい剤を出して小分けし、カプセルや銀紙に包んだ上茶封筒に入れたものを、翌朝早く大阪空港でAに渡したというのである。

しかし、覚せい剤を譲渡しようとする者が、わざわざ大阪からゆうパックに梱包して東京に郵送し、これを大阪まで持って来させてから、翌朝早く待ち合わせているというのに、夜遅く覚せい剤をカプセル入りや銀紙入りのものに加工するというような回りくどいことをするであろうか。被告人が最終的に自ら加工しなければならないのであれば、Aの手を経由させる必要性は認め難いのであり、Aに郵送して取りに行かせたりなどせず、自ら調達し加工した覚せい剤を用意して、一二月二四日にAに渡せば足りると思われる。かえって、郵送することにより、途中で犯罪が発覚する危険性もあるし、被告人にとってAが信用の置けない人間であれば、中身をAに開けられて警察等に通報される恐れもあったというべきである。そして、右のゆうパックや本件覚せい剤等に被告人の指紋等、被告人が関わっていたことを直接示す証拠はなく、Aの証言があるのみである。

検察官は、郵便小包配達証に記載された宛て先が、Aが過去にワインクラブの事務所を置いていて既に閉鎖された場所であって、だからこそ、東京中央郵便局留めで発送されたと考えられ、右の配達証に記載された電話番号は、Aが当時使用していた携帯電話の番号であるから、ゆうパックを発送した人物は、Aの過去の事務所の所在地、その事務所が既に閉鎖されていること、Aの携帯電話の番号を知っている人物であり、Aの証言によれば、同人は、右事務所の所在地が記載された名刺を被告人に渡したことがあり、かつ、被告人にその事務所が既に閉鎖されていることを告げたのであり、被告人自身Aの携帯電話の番号を知っていたから、ゆうパックは、被告人あるいはその指示を受けたものが発送したと推認できると主張する。しかし、仮にAの右の証言が信用でき、そのとおりの事実があったとしても、被告人がA宛てに郵便物を送る際に、わざわざそのような閉鎖された事務所に送るような偽装工作を凝らす必要性はないのであり、Aの現在の住所に送れば足りるのである。しかも、Aの証言の信用性は前記のとおりであるから、この部分についてそれが信用できるとは到底考えられず、他に被告人がAの過去の事務所の所在地やその事務所が既に閉鎖されていることを知っていたと認めるに足りる証拠は存しない。他方、Aは、本件後の平成九年一月六日ころ、本件覚せい剤等を岩原弁護士の事務所に郵送して送りつけた際にも、封筒(平成九年押第一四九六号の10)に右の閉鎖された事務所の住所を差出人住所として記載しているのであり、むしろ、検察官の主張する要件に最もよく当てはまる発送人は、A本人にほかならない。すなわち、右の事実の経過を素直にみれば、Aが自己の関与を隠蔽するため、閉鎖された過去の事務所宛てに東京中央郵便局留めでゆうパックを送らせ、これを受領したと推認することができるのである。

2  Aの携帯電話の通話記録について

捜査報告書(甲五二)は、Aの携帯電話の通話記録に関するものであって、確かに、これには、Aが一二月二三日に三回にわたって司家に電話をしたことなどに関する同人の証言に沿う記載がある。しかし、同日午後八時二二分に大阪から司家にかけられた電話は、Aが翌日被告人の指示により覚せい剤を持って司家を訪れるという重大な内容のものであり、しかも、途中で通話の相手がDからD′に替わったにもかかわらず、七分三八秒で終わっているのに対し、一二月二三日午後四時五七分に大阪から司家にかけられた電話は、二七分四四秒もの長電話であって、相当重要な話合いが行われたのではないかと推認される。しかし、この点に関するAの証言は、途中で待たされて時間が長くなったなど、曖昧なものであって、にわかに信用することができない。

3  D′、工藤警部、Dの証言について

検察官は、Aの証言を補強する証拠として、D′、工藤警部、Dの証言をあげるので、これらについても、検討を加えておく。

(1) D′は、一二月二三日にAから三回にわたり電話があった状況、翌二四日同人から電話があった状況、同日熊本空港に到着後のAの行動等、概ねAの証言を裏付ける証言をしているほか、同月二三日夜、Aから電話があった後その日のうちに、知り合いの工藤警部に相談した旨証言している。ただ、一二月二三日のAからの三回目の電話の内容について、D′は、「甲野さんが麻薬を持ってAさんにジュースか何かに飲ませて、それを警察に訴えてマスコミに報道して、Dさんを社会的地位から葬ろうみたいなことを考えておられるから、Dさんは警察の方がおられるんだったら、相談してみたらどうですかみたいな電話でした。」「明日一一時にお宅に伺いますということで、お電話は切れました。」などと証言している。この点についてのAの証言と比較すると、Aの証言には同人が被告人と一緒に行く場合を想定した発言があるのに対し、D′の証言にはそれがみられず、Aが一人で行くことが前提となっているという点で、相違点を指摘することができる。

(2) 工藤警部も、概ねA及びD′の証言を裏付ける証言をしている。ここで注目されるのは、工藤警部が一二月二三日夜にD′から聞いた電話の内容として証言している点である。すなわち、工藤警部は、「Dさんの奥さんから電話がありまして、相談があるという内容で、Aさんが甲野さんから覚せい剤をを預かって、それをDさんの所に持って行って、一部をDさんに何か混ぜて飲ませ、残りをDさんの所のどこかに隠してくると、そしてそれを警察に通報して、そしてDさんを逮捕させると、そういう内容だったと思います。」と証言し、この話について、「ちょっとおかしいんじゃないかと、例えばAさんが本当に甲野さんから預かって持って来るのであれば、そういうのをわざわざDさんに言うだろうかということで、まあ、明日会ってから話を聞きましょうということで終わっております。」と証言している。このように、工藤警部は、D′から聞いたAの話として、Aが単独で被告人から預かった物を持って来ること、持って来る物が覚せい剤であることを断定的に証言しているのである。このうち、前者の点は、D′の証言と符合しており、後者の点は、工藤警部が一二月二四日に覚せい剤の現物を見ているので、表現が断定的になっている可能性もないではないが、同人が現職の捜査担当の警察官であることから、その信用性は高いといえ、前記三6の疑問をいっそう裏付けるものといえる。また、同人がD′から聞いたAの話に不審を抱いたという点も、Aの話の不自然性を窺わせるものということができる。

(3) Dの証言は、主として本件の経緯に関するもので、概ねAの証言に沿うものではあるが、被告人から暴行を受けたときの状況については、九月一三日ころ、ウーロン茶の空き缶を投げつけられ、横の方に引きずり回され、足を蹴り上げられ、ゴルフクラブで足首のあたりを打たれたという内容となっている。この証言は、ゴルフクラブで足を殴られたという限度では、確かにAの証言とし符合しているが、Dはこの時足から血を流したとは証言しておらず、Dが血を流しているのを見たことがあるというAの証言は、明らかに誇張を含むものである。

Dは、弁護人の反対尋問においては、被告人の公判供述にかなり符合する証言をしている上、それと対立している部分、例えば、一月二五日ころ自殺を迫られたときの状況については、被告人の公判供述と比べると不自然で、信用性の低い証言をしている。

(4) 以上の三名の証言は、確かに、Aの証言と概ね符合する内容ではあるが、特に、D′とDの証言については、信用性の低い部分もある。これらの証言によって、Aの証言の信用性がさほど高まるということはなく、かえって、前記のとおり、Aの証言の疑いを深める点もある。

五  被告人の供述について

1  被告人は、公判廷において、本件の経緯及び一二月二三日及び二四日のAとのやり取り等について、詳細に供述するところ、その内容は、概ね捜査段階から一貫しており、格別不自然不合理な点もなく、少なくともAの証言と比べて格段に信用性が高いということができる。

2  なお、Aの愛人であったGの警察官調書には、要旨以下のような供述がある。すなわち、「一二月二四日か二五日の夜、被告人から二回電話がかかってきた。その内容は、『Aから連絡がありましたか。電話がつながらないし、事故も考えられるので、心配しているのです。』というものであった。私が『九州じゃないんですか。』と問い返してみると、被告人は、『いや、ホテルにチェックインしていないんです。』と答えていた。私が、大阪の実家に戻って、予定を変更したのだろうと思いめぐらしていると、被告人は、『九州には行っているはずなんです。行くのは自分が確認していますから。』と言っていた。次に、一二月二五、六日ころにも、被告人から『連絡がありましたか。』と電話がかかってきた。」というのである。

Gは、本件当時もAとの関係が続いていたから、Aに有利な供述をすることはあっても、同人に不利な供述をすることは考えられないのであって、信用性が高いということができるが、右の供述からは、被告人がAの安否を真剣に心配していたことが窺えるのである。もし、被告人がAに覚せい剤を持たせて熊本へ行かせたとすれば、Aがやり損ねて警察に捕まったとか、途中で被告人を裏切って行方をくらましたといったことに思い至るはずで、Aの安否を気遣ってGにこれを尋ねるなどということは考えられない。したがって、このことから、被告人にとって、一二月二四日にAが行方をくらまして以降の行動が全く予想外であったことが推認できるのであり、これと同旨の被告人の供述を裏付けるものということができる。

六  Aの人物の信用性について

以上の検討により、Aの証言が矛盾にみちた不合理な内容のものであって、到底信用することができないものであり、被告人の本件への関与を証明するものとなりえないことは明らかである。

ところで、検察官は、論告において、Aが被告人を陥れる理由がなく、Aが人物的に信用しうると主張する。被告人と本件覚せい剤を直接結び付ける証拠がAの証言以外にない本件においては、被告人がDを陥れるためにAに覚せい剤を譲渡したというAの証言が信用できないとすると、これと裏腹に、Aが被告人を陥れるために本件覚せい剤を被告人から譲り受けたと供述したのではないかという疑惑が生じる関係にある。

Aが被告人を陥れる動機の存否については、もとより本件において明らかにする必要はないので、検察官の主張に対しては、以下の点を指摘するに止める。

1  検察官は、Aに司家の負債整理や本件ワイン、本件マンションの処分についての疑惑はなかったから、Aが被告人からの疑惑の追及を免れるために、被告人を陥れる動機はなかったと主張する。しかし、問題は、右の諸点についてAが違法、不当な行為を行ったか否かではなく、被告人らからの疑惑の追及を免れようとする動機がAにあったか否かである。前記のとおり、被告人が平成八年七月以降、司家の負債整理や本件ワイン、本件マンションに関するAの事務を引き継いで以来、Aの行動に不審を抱き、一二月二四日まで継続してこの疑惑についてAを追及していたのに対し、Aがこれを否定するに止まり、疑いを解消するに足りるだけの証拠等を被告人らに提出しなかったのは事実であり、その上、Aの証言によれば、同人の行為によってBのグループ企業にかけた損害について弁償するよう被告人から要求されていたというのである。Aの供述によれば、同人は、Bの事務所に暴力団関係者が出入りするのを知っていて、恐れていたというのであるから、Bから本件に関する担当者として信頼されていた被告人が、Bに対してAが不正行為を行っていたと報告をすれば、Bに信頼されていない自分が潔白を訴えてもBに信じてもらえず、Bやその配下等からいかなる仕打ちを受けるかもしれないと恐れたとしても、無理からぬところである。したがって、Aが右の諸点に関して違法、不当な行為を行ったかどうかはともかく、被告人らからの疑惑の追及を免れようとする動機があったことは、否定しがたいところである。

2  検察官は、前科のないAが、有罪判決を受ける危険を冒してまで、被告人を陥れようと考えることはおよそ考えられず、被告人を陥れたとしても、他のBの配下から責任を追及されることは避けられなかったから、被告人を陥れても意味がなかったと主張する。

確かに、右のように考えることが、通常人にとって極めて大胆であることは、検察官の指摘をまつまでもない。しかし、Aは、平成九年一月二三日付け検察官調書の中で被告人の言葉としていみじくも述べているように、覚せい剤の件で捕まっても、初犯であれば執行猶予で釈放されると考えていたと思われ(実際、Aは、本件覚せい剤所持の罪で、懲役六月、一年間執行猶予という、同種の覚せい剤事件と比べても非常に軽い処罰を受けるに止まっている。)、他方、被告人が同じ罪で捕まっても、強盗等の前科があるために執行猶予はつかず、当分社会に出て来ることはないであろうと予想できたと思われる。そして、A自身が逮捕されることにより、事実上警察に保護された状態となるから、とりあえず被告人の追及から身をかわすことができ、本件覚せい剤の譲渡人として被告人が逮捕されれば、前記の疑惑についての直接の担当者がいなくなり、いずれこれについてのほとぼりも冷めると考えた可能性も、ないとはいえない。この見方によれば、Aが工藤警部に自分を逮捕してくれるよう強く要望したという、一見不可解な行動も一応説明がつくと思われる。

3  検察官は、Aが、平成八年一〇月、岩原弁護士に、Bに対する金二五万円と英貨一三〇万ポンドの債務不存在確認訴訟を依頼して、身の潔白を証明しようとしていたから、Aが覚せい剤を使って被告人を陥れようと考えることはありえないと主張する。しかし、岩原弁護士の警察官調書(同意部分)によれば、被告人の住居が不明であったこと、Aが訴訟に必要な費用を支払わなかったので、この案件は保留になっていたことが認められるから、A自身がどれほど真剣にこの訴訟を起こそうとしていたのかは明らかでない。ちなみに、Aが証言するように、このころ被告人から暴力を受け、家族を一人ずつ殺していくなどと脅されていたのであれば、このことで被告人を訴えるよう岩原弁護士に依頼してもよさそうであるが、そのような事実は認められない。

七  結語

以上のとおりであるから、Aの証言はもとより、その余の証拠を総合しても、被告人が本件に関与したとは到底認められない。

よって、本件公訴事実については、有罪の証明がないから、刑事訴訟法三三六条にしたがい、無罪の言渡しをする。

(裁判官 朝山芳史)

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